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テレビ等のメディアにおいて「千葉でヤクザをしていた」と公言。
「ハマコー」の愛称で知られ、「国会(政界)の暴れん坊」の異名をもつ。
自由民主党の衆議院議員として通算7回の当選に及び、衆議院予算委員長、自由民主党広報委員長、自由民主党副幹事長などを歴任したが、国務大臣の任命経験が得られないまま、
1993年(平成5年)に政界を引退した。自ら「尊敬する人物」と公言してはばからないのが熱海の暴力団、稲川会初代会長の稲川聖城であった。上記の事件で懲役1年の実刑判決を
受け、刑務所へ服役、出所してみると所属していたヤクザ組織は稲川組に吸収されていた。1950年代半ば、所属する組の親分が死んだため稲川に相談したところ、別の道を考えた
ほうがよいと言われ、政治に関心があると答えると、児玉誉士夫に紹介してくれた。
1987年(昭和62年)に自民党総裁選に立候補していた竹下登へ右翼団体である日本皇民党から、執拗に『日本一金儲けの上手い竹下さんを総理にしましょう』と凱旋攻撃を行った。
竹下の意を受け工作資金8億円を持参して訪問した浜田が、日本皇民党に一顧だにされず、激昂して発した言葉が、『お前らのやってることは、ほめ殺しじゃないか』だったとされている。 日本皇民党が竹下を
攻撃した理由は、「闇将軍」とあだ名されていた元首相の田中角栄に叛旗を翻す形で竹下が経世会(竹下派)を旗揚げしたことに「義憤」を感じたためといわれる。
暴力団とのつながりが強い、東京佐川急便社長の渡辺広康に仲介を依頼し、渡辺は広域暴力団・稲川会に皇民党との仲介を依頼する。これを受けた稲川会と皇民党との2度目の会談で、『竹下が田中邸に直接謝
罪に行くこと』を条件にほめ殺しをやめることで両者の話し合いがついた。この合意を履行するため、竹下は小沢一郎と共にマスコミが詰めるなか目白にある田中邸を訪問した。しかし、長女の田中眞紀子らの田
中家側が竹下を家に上げなかったため、竹下は名刺を渡して退去した。結局、竹下は田中邸を門前払いにされ角栄とは会えなかったものの、この訪問を境に嫌がらせは止んだ。
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